初めての宝石

何故か妙に昔の事が思い起こされて仕方がない。
もう先が短いのだろうか…とそんな事が気になる歳になってしまったかと嘆きとも寂しさとも違うけっして明るくはない感情を何かにぶつけてみなければ眠れない夜があるのである。

大阪に住む叔父に誘われて初めて渓流へ釣りに行ったのは四半世紀より少し遡るだろうか。
九州の山間部で生まれ育った私はオイカワやウナギなどを夏の間中追い回す河童のような少年であった。九州で渓流魚といえばエノハであるがその生息域は非常に限られていて私が育った南部ではその名前や存在さえ知らない人が多かったのであるが雑誌か何かでみたエノハが妙に気になり一夏中エノハを釣りに行きたいと考えていた頃があったのは今から思えば因縁と言うものであろうか、そして今その宿業にドップリはまり込んでしまった四半世紀をこうして回想しているのも、あの夏の衝撃に端を発しているのだ。少年老い易く…ん~なんと意味深き言葉であろうか。

思春期の頃から追い回す対象が変わりその道具やテクニックも並大抵の物では済まなくなって来た。この頃追いまわしていたのは何とも厄介な生き物で数釣りなどしようものなら大変な目に合うし大物などは釣りたくても手が出ないという代物であったので叔父からアマゴ釣りに誘われた時はアリ地獄に仏、蜘蛛の糸が降りて来たようなものであった。いけない、いけない…ついついこのような風情になってしまう。書きはじめの体をもう外れかけている、基。

初めての渓流は滋賀の愛知川支流茶屋川であった。朝4時半、季節はいつ頃であったろうか、古語録谷出合の急な下り口を降りて渓に立ったときのあの感動は今も忘れない。切り立った両岸の底に流れる清冽な水、朝靄が幻想的な風景に拍車を掛けて目に焼きついてしまったから恐らく初夏6月頃ではなかったかと思う。

古語録谷と茶屋川の出合は対岸に岩盤が切れ込み岩盤に沿って主流が流れ谷からの流れが左岸からぶつかる頃良い淵になっていた。さっそく叔父が餌のミミズをつけて流して見せた。方膝を付けて低い姿勢で主流の筋に添って矢羽の形をしたプラスチック製の目印が空中を流れていく。谷の流れが合流する筋の少し下流で目印がツンツンと動いた瞬間叔父の手が動き竿が曲がり目印の付いた道糸が下流へピンと張りながら引かれていく、次の瞬間、ズボッっと音が出たような感じで魚が抜き上げられた。確かに少年の頃の記憶通り綺麗な楕円形の模様が並んだ精悍な顔つきのエノハであった。が、なんだか赤い斑点がちりばめられている、そこまではっきり記憶していたわけでもなかったので「確かにあのエノハだ」というと、叔父が、これはアマゴだという。
エノハの標準的な名称はヤマメで静岡あたりから東の太平洋側、福井あたりから東の日本海側に陸封されたサクラマスで、西日本や四国、九州の一部瀬戸内側ではアマゴと呼ばれるサツキマスの陸封型になる。などと詳しく説明してくれたわけではないが、関西辺りはアマゴ圏だと教えてくれた。

ではなぜ九州のほとんどはヤマメなのか?四国にアマゴがいるのだから九州北東部にもいておかしくはない、福岡、大分、宮崎などは四国と同じ瀬戸内側に面している。なのにほとんど私の知る限りヤマメである。これは後々良く耳にした事なのだが関東から空輸したヤマメの稚魚を誰だかが放流した、まぁ個人的に放流したんではこれほどポピュラーに繁殖するはずもないので漁協あたりが結構大規模に放流し、そのまま引き継いで養殖してきたものを放流し続けている。という話は幾度か耳にしたしそのような文章も読んだことがある。
まぁ、そんなことで九州はヤマメなんじゃないだろうかと思っているのだが。
ただ球磨川上流川辺川、五木村の辺りではマダラと呼ばれるヤマメが存在する。これはどうも天然固有種だということなのでそのうち機会があればその筋の方にお伺いしたいと思っている。

話は27~8年前の茶屋川に戻るが、叔父はこれがパーマークで、そしてこの赤い朱点はアマゴ独特のもので川によって色が微妙に違ったり大きさや数も違っていると教えてくれた。そして針を外すと水の中へゆっくりと放してしまったのである。小さいから魚籠に入れるのは恥ずかしい、せめて掌くらいになってなければ持って帰るなといった。今私たちはサイズによらず全てをリリースしているが当時は私も釣った魚のほとんどを持ち帰っていた。から揚げにしたら骨まで食えて美味しいと豪語する方々が持ち帰るサイズまではさすがに殺す気にはなれなかったが、産卵可能なサイズになったものばかりを持ち帰っていたのだからその方々を今でも安易に批判することは出来ない。
朝一の獲物をリリースした叔父はさっさと淵に流れ込む少し深い瀬を丹念に探り始めた。一発目からきたいい淵を私に譲ってくれたんだなと叔父の何気ない気遣いだと勘違いし、それでは私が二匹目にもう少し大き目のを釣らせてもらうかと叔父が流した筋を攻め始めると「もうあかんからさっさと上に行け」と急き立てるのである。譲ってくれたのではなかった、一匹掛けるとそのポイントはもうほとんど釣れないからドンドン上流へ釣り上がって行くのだそうである。オイカワとは違いのんびり座り込んで釣るんではなさそうである。いつもと違い少々殺気立った叔父に近づいていくと、待て、ぐるっと回り込んで来いとジェスチャーしている。言われるとおりに回り込み近づいて「どうですか」と聞くと「バシャバシャやると気付かれて釣れなくなる、静かに歩け」と怒られてしまった。なんとこりゃ大変な釣りだなと思いながら叔父の釣るのを見ていると見ていても釣れんぞ、ドンドン上流に釣り上がれとまたもやの叱責である。いつもの叔父ではない!釣りとなると目の色が変わるのは遺伝なのだとその後暫く年が過ぎてから我ながら気が付くのであるが…。

叔父が釣っていた瀬は水深4~50cmの大小の玉石が水流を複雑にくねらせたり石裏に巻き返しがあったりと変化に富んだ瀬であった。現在の茶屋川を知る人はこのような絶好の瀬があちこちに見られる茶屋川など想像も出来ないだろう。ほとんど最上流まで延びた林道が増水のたびに砂利を堆積させ主流が子砂利を切り裂いてほぼ直線にさらっと流れてしまう水路のような川になってしまっている。このような瀬に魚が餌を待ち構えて定位する緩流帯などはなくなり、岩盤にぶつかり流れを曲げられる部分に少々の淵を作るが、この淵でさえ底は砂が一面に堆積し底石などほとんど見られない貧相な川になってしまっている。
それでも魚たちは数は激減したものの砂底の色に体色を変化させ隠れ場所のない淵や緩い瀬で餌を待ち構えているのだが、その警戒心は並大抵のものではなく少しでも動く物体を感知しようものなら白泡の中へ遁走してしまうといった自己防衛策を身に付けているものだから釣りにはならない。
茶屋川の古語録谷出合より少し下流に永源寺第二ダムの建設予定地があるがダム建設の為に最奥まで林道を延ばしたのかほぼ現実味のない木材搬出のためなのか、浅知識の私どもには何の意味もない林道を林道工事の為に作ったとしか思えないのである。
増水のたびに砂や砂利を排出するのは川の常ではあるが、林道が延びるに従ってその排出量が見る見る増えていったのを長年この川へ通い続け川の変貌を見続けたものとしては林道が川を急激に変貌させたのだと断言せざるを得ない。

時はまた少し遡るが、私が少年河童だった頃、郷里の里川も綺麗な水が流れ磨かれたように美しい大小の川石に流れを止められたり速められたり、淵となり瀬となり、白泡の下に潜ってみると大きなオイカワや時にはウナギなどが石の底や石と石の間から顔を出していたものだった。叔父たちに連れられて鮎を追うのだがなかなかうまく鮎を突く事が出来なくて(私の郷里では当時鮎はヤスで突いて獲っていた)叔父たちに良く笑われたものだった。
郷里に帰る度に、いつも遊んだ川を橋の上から眺めてみるのだが、底石は薄く泥が被り沈殿しきれない細かい泥で水の透明度はなくなりキラキラしていた少年の頃の思い出もどんよりとくすんでしまうのである。
少し遠出はしなければならないが、まだまだキラキラとした日本の美しい渓流は残っている。
砂利に敷き詰められ何の変化もなく流れる川、コンクリートブロックに護岸された岸辺、川というものはこんなものだと子供たちに伝えられるだろうか。本当に遺産として残さなければならないのは、何の変哲もない私たちが少年の頃遊んだ川のような身近な美しき自然なのではないだろうか。世界遺産に登録するとかしないとか、何かにつけ経済と結び付けなければ守れないのだろうか。私はただ美しい川で未来の少年たちも河童のように遊びキラキラとした思い出を残して欲しいだけである。そういう思いさえあれば治水や開発等々様々な避けられない事業にも違った方法が取れるはずである。

初めての宝石はなかなかそう簡単に釣れては困る。最初の一尾に出会うには結構時間が必要なのである。

丹念に叔父が探っている瀬に流れ込む上流の淵は両岸岩盤の深い淵になっていた。右岸の岩盤には程よい段状のテラスが淵を巻けるように通っていた。水深2mほどの淵はその幅が4mほどあり両岸は底へ行くほどえぐれていた。
叔父に先行して岩盤のテラスに立った私は内心これはいいポイントに違いない、下流の叔父には申し訳ないが速い流れの瀬よりよっぽどこちらの方が釣れそうだとほくそえんでいたのである。
テラスに腰掛け、先ほど餌箱に入れたミミズを針に刺し対岸の岩盤のえぐれに沈めた。ゆったりとした流れに合わせて下流へ目印がひらひらと流れていく、一流し二流し…何の変化もない、きっといい型の魚があのえぐれには潜んでいるはずだ。暫く粘ってみるかともう一流しした頃、叔父が上がってきた。「もう飽きたんか」といきなり妙なことを言う。いいポイントだからじっくり攻めているのだと言うと、魚から丸見えの場所に座り込んでしまったらもうとっくに魚は逃げてしまってる、淵の底まで丸見えってことは魚からも丸見えって事だ、魚に気付かれないように近づかないと釣れない魚だと先ほどまでの期待を一蹴されてしまった。
岩盤を巻いて淵の流れ込みがいいポイントだから気付かれないように姿勢を低くして近づいて流してみろとやっとアドバイスを一つ貰えた。先ほどまでの殺気が和らいでいる感じだった。夜中から運転して少し疲れ気味なのかな、朝の4時半から釣りってのも結構大変だしな、などと勝手に先ほどまでの殺気を洞察していると、「ほれ」と何と大きい奴を2匹も魚籠に入れていた。先ほどの瀬で釣っていたのである。なんだ、そういうことか…幸先良くいい型を2匹も釣ったので気分がいいって事かよ~釣りのこと意外何も考えてないなこりゃ。
アドバイス通り抜き足差し足流れ込みに近づいて一投、二投、三投、四と…「おらんな」…えっ何で?まだ三回しか流してないのに。
こんなポイントは誰でも狙うから三回も流してアタリがなかったらおらん!…何という独断と偏見、くそっもう二三回流して釣ってやるぞ!と今度はこちらが殺気だって来た。
ほれ来た!と私が釣っている淵に少し段状に流れ込む上の岩盤の深瀬でいつの間にやら釣っていた叔父にまた来た。なんやねんそれ~、朝一の殺気が完全に私に乗り移っているのだった。
それにしても何でそんなに釣れるん?餌も仕掛けも同じ、流し方もそんなにへたっぴじゃないと思うけどなぁ
「先に行け」「気付かれないように近づけ」「三回流したら次行け」おぉ!これや!この三原則!
深瀬の上の小さな淵をやっている叔父に怒られない様に遠く回り込んで淵に流れ込む長くて細くなった少し流速の速い深い瀬に出た。静かに這うように近づき一投…ギュンと聞こえた、目印が上流に走った、へっ何?竿を上げてみた、釣れてる、今度は下流に走り出したから慌てて竿を横に倒し走りを止めにかかった、「竿を立てろ!」下流で見ていた叔父が叫んでいる。

最初の1尾、未来を予感させる衝撃の出逢いと言えばとても羨ましい話をつい最近2つも聞いてしまったのである。エキスパート達が歩んで来た道はその始まりから我々とは違うのである。
翻訳家でありFFFマスターインストラクターの東知憲氏は私が少年河童を卒業して色気づいていた頃、かのメル・クリーガーのキャスティングスクールを受講し以降手紙や電話で指導を受けて来たそうである。
写真家の津留崎健氏は同じ頃、川辺川で蛍の乱舞するなか初めてのヤマメを手にし、その時の衝撃的な美しい光景が今の氏を形作っていると語られていた。

さて、私の最初の1尾は…
「竿を立てろ!」といわれたって、もう竿も道糸もほぼ一直線となり立てようがない、ええいこうなれば走る魚について行くしかない!下の淵で釣っている叔父には悪いが淵まで付いて行けば何とかなるだろうと川原を突っ走った。案の定淵の急な流れ込みに突っ込んだ奴は急流の抵抗がなくなった淵に慌てたようで今度は深みへと突っ込んでいくがすでに追いついた私は余裕でその突込みをさばける位置についていた。「尺あるんちゃうか」と叔父がまた叫ぶ、尺?…ほぼ直後に理解できた、30cmはあるってことか。その大きさがアマゴ釣りにおいてどういう意味があるのか知らない私はまだ余裕しゃくしゃく、あとは浮かせて抜き上げるだけと思いっきり竿を立てた、直後満月のように曲がった竿はプンッと音を立てて跳ね上がった、淵の中にキラキラと取りとめのない動きの光が走り、消えた。

というシナリオが面白いのかもしれないが、実はちゃんと取り込みました。叔父の仕掛けは大物対応型、まぁただ太いだけなんですが、道糸0.8号、ハリス0.6号という極太であったので切れようがなかったのす。
足元にドタドタと暴れるアマゴをまるで猫が毛糸玉にじゃれるようなスタイルでおっとっとと、やっと押さえ込んだのは尺には到底及ばないサイズでしたが、きょとんとしたまん丸な目、しっとりとしたいぶし銀のグラマラスなボディに鮮やかな朱色の斑点、きゅっとくびれた尾びれ、透明感のある黄色味を帯びたヒレは外殻に広がるにつれ赤みを帯びて美しく輝いていた。叔父が釣って見せてくれたどのアマゴより綺麗であった。見とれていると「やったな」と叔父がにっこり、「初めて釣ったアマゴは宝石のように綺麗に見えるやろ」と褒めてくれた。
その日のことはその1尾を釣ったまではほぼ鮮明に記憶しているのだが、以降のことはほとんど覚えていない。何せドンドン釣り上がる叔父に着いて行くのが精一杯だった様な気がする。