釣りが汚くなること

随分昔の話になるが、私が京都に来てまだ間もない頃にお世話になっていた方が鮎の友釣りを趣味とされていた。
まだ新しい環境にも慣れておらず趣味などという余裕もなかったので友釣りの話も面白可笑しく聞き流していたのだった。
当時鮎の友釣りは全盛期で年々竿は長くなり軽くなっていくはしりの時代で鮎竿一本数十万というのはざらで、これが予約で飛ぶように売れるという釣具屋さんには鮎様々の時代であったようだ。
その頃は京北や美山に夏場は鮎を獲って料亭に売る職漁師の方も結構おられたように聞いている。
もっと以前、戦後間もない昭和23年頃には賀茂川で獲った鮎を80円程で買ってくれたそうで結構な小遣い稼ぎになったそうだ。幼い頃から釣りを友としてこられたあるお医者さんが自費出版された本にこの頃のことが書かれているのだが、そのお医者さんは昭和23年頃まだ中学生で出町から高野川の方へ少し上がったあたりに住んでおられたようだ。中学になり近くの豆腐屋さんのご主人に友釣りを教えてもらっていたそうである。あるとき友人に鮎を獲って料理屋さんに売るといい小遣いになると聞いて、師匠である豆腐屋さんにそのことを話すと「鮎は売らんときや、釣りが汚くなるさかい」と言われたそうだ。
この段でこの時期の話は終わっているのだが、獲った鮎を売ることがなぜ釣りを汚くするのかいろいろと思うことが多く、暫くいろいろ考察してみようと思うのである。
わざわざ書く事でもないと思うが自身も豆腐屋を経営されている方が、鮎を売って生活の糧を得ておられる職漁師を批判されている言葉ではないことは誰でもわかる事だと思う。

まずはこの言葉を見つけた本の中から考えてみる。このお医者さんは開業医の息子さんで地域的に尊敬される家柄であったこと。ご自身も後の記述で釣りはある種この博奕性が面白いと書かれているが、師匠である豆腐屋さんは大事な中学生の弟子に博奕を教えてはならないという思いがあったのだろう。僅かなお金を稼ぐために大切な少年期を台無しにしては申し訳ないという一般的な常識人であったことがうかがえる。

また地域的な偏見という視点も忘れてはならないと思う。だがそこまで鮎文化に精通するほど鮎に入れ込んだことがないのでこれを精査する材料や経験はない。
京都の人たちは鮎が本当に好きである。イワナやアマゴを持ち帰っていた頃近所におすそ分けを持っていく、2度くらいまでは珍しいと言って喜んでもらえるが3度4度となると、またかという雰囲気が明らかに伺えてしまうようになる。それが一因でリリースするようになったのだが。
ただ、鮎だけは何度持って行っても喜ばれる。中には私が行くと家族全員待ってましたというように出迎えてくれて「鮎だ鮎だ」と大喜びしてくれるお宅もあったほどである。お隣さんの若夫婦は魚が全くダメで丁寧にお断りされたのだが、翌日わざわざ若夫婦のお母さまが是非次回は頂かせて下さいと私が帰るのを待って申されるのである。特に驚いたのはメアド教えろと無理やり聞いた少し綺麗なおねえちゃんになんだかんだメールを入れても3~4日返事は来ず、来ても一行程度というオジサンにはもっともな態度を取っていたおねえちゃんが、近所にお配りするほど数もなかったとき「鮎いらんか?」とメールすると速攻返事が来て早くしないと傷むので今日中に頂ける時間を作るのでどこそこ辺りで落ち合いましょうという。お茶などご一緒させてもらって持って帰ってもらったのだが、おねえちゃんが言うには「夏は鮎!買ってでも食べる、川の鮎は久しぶりで嬉しい」らしい。網入れが解禁になるころは配る軒数と人数を勘定して150は獲らんといかん、300はいるなどといった知り合いもいる。
このような鮎好き文化の中で「獲った鮎を売らんときや」と釣り師はいうのである。推察ではあるがどの地方の釣り師でも「売らんときや」ときっというに違いないだろう。

物事に対する考え方というのは時とともに変遷していくものなのだという事を半世紀ほど生きてきて思い知らされている。時代背景というのは最も考慮すべき点であるのは承知しているつもりだが、この頃の時代背景と釣りを絡めて考えるにはあまりにも膨大な資料を必要としてくるし左右全く異なる見解が多すぎてあてにはならないようなので、ここはひとつ嗜みとしての釣りというのはいつの時代もその趣きは変わらないのだという独断の基に時代背景を無視するつもりだ。

釣師は「売らんときや」というが職漁師は売らなければならない。しかしただ多く釣って料理屋へ持っていけばいいというものではないようだ。冒頭で私がお世話になっていた方のことを書いたが、この方がいうには友釣りで稼いでいる人は腕もいいし川をよく知っている、だがただただ多く釣るだけでは料理屋は買ってくれない。高級料亭ともなるとその寸法や掛かりどころまで指定してくるし毎日決まった数をきっちり揃えなければならないから大変な仕事なのだそうである。釣れなければ知り合いに助っ人を頼むかそれでもだめなときは川じゅうの釣師に釣れた鮎を分けてもらう事もあるという。もちろん多く釣れた日に備蓄はしていただろうが、雨続き、日照り続きなどがあれば少々の備蓄などすぐに底をついてしまう。そんな苦労をしながら鮎を売って暮らすのも辛いだろうと職漁師に聞いてみたが好きでやってるから、苦労は苦労だがいい鮎を届けて美味しく料理してもらい美味しく食べてもらえるならこんないい仕事はないと話すのだそうだ。
時はまた遡って前述のお医者さんが少年の頃そしてそれ以前の頃は朽木の川で獲った鮎を樽に入れ天秤棒で担いで京都まで活かしたまま一日がかりで運んでいたそうである。その頃の漁師さんもきっと美味しい鮎を美味しく食べてもらうことに誇りを持って苦労を厭わず自慢の鮎を届けていたはずである。

鮎のことで終始するつもりではないのであるが、私も少しばかり鮎の友釣りをかじったことがあるので余談休憩といことで私の鮎歴を少し反省してみたい。
第1期は30代前半、淀川水系は京都では木津川、宇治川、鴨川、桂川と4本に大きく分かれるが嵐山を遡り亀岡、園部、京北周山へとのびる桂川で一度はまったことがある。嵐山を少し遡ると保津川下りで有名な保津峡になる。山陰線保津峡駅の辺りから下って高雄から流れる清滝川が保津川と合流する落合というあたりで友釣りを始めたのであるが、この辺りの鮎は急流の岩盤に苔が豊富なのか大型が多く、掛かると急流に持っていかれ素人の私などには掛けた鮎の半分ほどしか取り込めなかった。急流にオトリごと飛ばされ一尾掛けて2尾逃げられるから半分取り込んでもプラスマイナス0なのである。時にはオトリがなくなって落合の囮屋にまた買いに行くというのもしばしばであったから囮屋の主人にも顔が知れて釣り方やポイントなど色々親切に教えて貰えたのである。
最初の囮はほぼ養殖ものなので急流に入れても大体は思ったように底に潜ってはくれない。手前の岩盤側でころよい野鮎を掛けられればしめたものだがなかなか手前に居る奴は追ってくれないので急流をまたいで対岸の玉石底を狙わなければならない。うまく囮を誘導して対岸の良さそうな石まで届けるとガガンと掛かって下流へ走り急流の流芯に入り込む、手前の岩盤に立っている私は下流側へ付いて行って流芯をかわし取り込みたいところだが岩盤の岸は足場が荒くてとても鮎の走りについて行けるような状態ではないので立っている位置でうまく急流をかわして取り込まなければならないのだが、流芯辺りで浮いた鮎は跳ねてばれてしまう。時には一気に走られて太めの道糸でも簡単に切られるのである。
この対策として囮屋の主人は鮎が掛かったら竿を立てずに上流側にねかせ掛かった鮎が浮かないように下流に走らないように耐えながら流芯の底を潜らせたまま手前に寄せるのだという。竿が折れるかもしれないが道糸が切れることは少ないという。試しにやってみたが流芯の底の流れは比較的緩くて鮎の走りを制するだけの竿の剛性があれば道糸が切れることはなかった。強引に寄せるのでたまに身切れはあるが囮ごと飛ばされることは少なくなったのである。落合の淵は深く、大きな底石がいくつかあり岸の書物岩という岩盤上から釣る。底石の辺りまで囮を送り込んでやるとククッと前アタリがあってギューンと引き込まれる。一気に竿は満月になり岩盤で右往左往させられるが取り込めるのは水面近くにせり出した一か所だけの小さなテラス状の岩盤の足場なのである。幅広の大きな鮎は引き抜くのは無理でうまく制してこの取り込み岩まで持ってくるのには結構時間がかかり、やり取りしているうちに決まって保津川下りの舟が来る。大鮎2匹に引き絞られた道糸は張りに張っているからちょっとでも舟縁に引っかかるとプンと切れてしまうのである。そんなことで保津峡で二夏ほど大鮎釣りを楽しんだ頃があった。
ここでは数人の人命救助をしたことがある。落合の淵は流れが底へ渦巻いて引き込んでいるので気楽に泳いでいる人が急にバタバタと溺れそうになるのである。そんな時はあわてず鮎竿をじんわり差し出してあげる。竿につかまったら下流に引っ張ってやり素直な流れに戻してやるとまたうまく泳いでくれるようになり、助かりましたと礼をいわれるのであるが大体見ていると溺れかけるなというのは分かるのであまり慌てなくなっただけのことなのである。こちらは竿を折られたら大損なので折られないようにうまく助け竿を出す方に気を使うのであったのだが。
第2期は保津川にばかり行っていても飽きるので日野川やら美山川など有名どころを少々釣り歩いたのだがあまり釣れなくて釣れても引き抜ける程度の小鮎ばかりで面白くなくなってしまい10年ほど間が空いたのだが、フライフィッシングがやっと楽しくなりだした頃のことである。
その頃はまだT川も幅広のいい顔つきのアマゴが釣れていた頃でよく通っていた。ある年、鮎の稚魚放流の直後に大水が出て稚魚は流されてしまったという事で鮎の解禁はなしになってしまった年があった。フライフィッシングに夢中になりだした頃なのでアユの解禁など気にも留めていなかったのだが、立て看板か何かを見て鮎は今年はいないのだなとうすうす頭の隅にはあったのである。
鮎の放流後のアマゴ禁漁が終わったのでぼつぼつT川ということで川を見ながら走っていると鮎釣りらしき人を一人見つけた。この人知らないんだろうかとわざわざ車を止めて川まで降り今年はいないんじゃないんですかというと「漁協が勝手にいないと思い込んでるだけや、数は少ないけどその分大きなのがようけおる」というのである。囮は途中の料理屋で養殖鮎を仕入れて来たそうだが確かに黄色い大きな野鮎を結構掛けていたのである。その鮎を見た途端に保津川の鮎を思い出しこれはほってはおけんぞと10年ぶりに悪い癖が出てしまったのである。
10年間程しまっておいた鮎竿と今時使う人もいないビニール製の曳き舟と丸い鮎缶を引っ張り出しタモの破れはないか確認して天糸、道糸、三本イカリを買い出しに走り、さて囮はどこで算段しようか考えた挙句、日野川まで走り山越えすれば30分程度でいけるなと土曜日の早朝日野川の最上流にある囮屋で囮を3匹もらってT川へかっとばした。
底石の色好い棒瀬に入り久しぶりで鼻環通しに手間取ったがなんとか元気なまま囮を送り出せた、直後あの保津川の衝撃が走った。クイッガガーン。カー!堪らん!これやこれや、これが鮎釣りや。野鮎に囮を変えガンガン瀬に入れる、道糸が一瞬たるんで目印が上流へ走る、竿を立てるがまだ上流へ走り囮を引いたまま白泡の立つ強い流れを突っ切ってその上の瀞瀬で取り込んだ。こんな鮎は最近なかなかお目にかかれんぞとその年は8月いっぱい鮎一色になってしまったのである。
翌年も7月後半ごろからT川の鮎、前年のグレイト鮎には及ばなかったが上流のアマゴ釣りのポイント辺りではまだまだいい鮎が来てくれた。
翌々年辺りから徐々に鮎釣り師が増えだして下流の広い釣り場から溢れた人たちが上流に押してきだした。
その翌年には上流でいい鮎が釣れることに気が付いた人たちが多くなり、釣れ様もいまいちとなりだし、下流では成魚放流など始めたものだから一気に嫌気がさしてしまってやめてしまった。
贅沢と言われればそれまでだがあの解禁しなかった年のような鮎釣りはもう出来ないのだろうかと残念に思っている。
思い切って放流量をぐっと押さえてたらふく苔を食んだ頃解禁てのも面白いだろうが、我々にそんないい話は来ないだろうから成魚放流でもなんでもたっぷりとぶち込んでイワシの香りの背油を心行くまで味わって頂きたいものだ。

閑話休題、時代背景を無視するつもりだったがどうもそうはいかないのではないかと気が変わってきた。
私が釣りを友として楽しみだした頃は誰もが何処へでも気軽に速く楽に移動できる時代になっていた。釣れると聞いたほとんどの川へ何の苦もなく行けるような時代になっていた。
昭和23年に気軽に車を飛ばして釣りに行ける人はそうそう居なかったはずだ。
近くの川に竹竿を担いで行く程度が一般的だったろう。
釣りの情報にしても雑誌や新聞でもそうそうお目にかかれる時代ではない。
ネットでも調べられる程度で釣り糸や釣り針、竿など当時どの程度の性能であったか見てみると、基本的には現在と大きく変わったところはないように見受けられる。竿は軽く長くなり、針や糸は細く強くなってはいるが鮎自体の量や質をさっ引くと当時の方がいい鮎が多く釣れたに違いない。
大正時代に鮎でおお稼ぎした人々の話が出てくる。天候不純で農業で食えなくなった人達や不況で食えなくなった人などが出稼ぎで稼ぐ鮎漁師に教えを乞うという話がでていた。
鮎漁で一攫千金というほどでもないがかなりの稼ぎになっていたそうで、この頃は鮎は売るものだったのかもしれない。
当時の京都のことを耳にする機会があったので要約すると『呉服屋などの商売人のご主人は、儲かった金を土地や家を広げることに使わず、謡や小唄、お茶などの趣味に使う優雅な慣習があって、芸に励むことによって粋な人といわれて満足していました。土地や家に金を入れるのは成金と呼ばれ軽蔑されました。』という今では考えられないほど優雅な都だったようだ。
半分は推察にすぎないが、もしこういう時代背景があるのであれば豆腐屋のご主人のように嗜みとして鮎釣りをされていた方々にとっては異様な光景が繰り広げられていたに違いない。
ただその技術開発の主役は職漁師だったのか釣師だったのか定かではない。
突然ではあるが私も釣師の端くれ、魚を売って生計を建てているわけではないが大物を釣りたいし沢山釣りたい。ただどんな手を使ってでもそうしたいかというとそれは否であり、そう言うことをしてみようかとも思わない。
かつてイワナが貴重なタンパク源であった頃、山間部の農家や林業を生業とする家庭では沢を大事にしていた。楢山節考でもイワナを取るのは沢の岩の中にそっと手を入れてやると手のひらにイワナが乗ってくる、そうやって獲ったイワナは保存して大切に食べていたというような事が書かれていたように記憶している。
売るためにイワナを獲る夫婦の話はなんだったか忘れたが、開高健の本であったと思うが売って生計を立てるために獲らなければならない量は膨大で山奥へ幾月も入り保存用に加工し一定の量が貯まるとそれを担いで町へ運ぶ、幾日も山を下りられないからまともな食事は摂れない、不足する脂質の補給に鯨の脂身を干したものを山小屋の天井に吊るして汁にドボ浸けして食う。職漁は体力の限界まで賭けた高いリスクを伴って行われていたようだ。
生業と嗜みはリスクの差であり、リスクを伴わない嗜みで職の真似をする、素人が博奕にたまたま勝ってしまう、こんな事が昭和23年頃の賀茂川でたまたま行われていたのではなかろうか。少年が鮎を売るとは生業と嗜みの違いを理解せずにうまい汁を吸ってしまう怖さを窘められたのではなかろうか。
現代は鮎釣りやイワナを獲って生計を立てる人はごく僅か、ほとんど居ないに等しい。どちらかというと嗜みの方で生計を立てようとする方々が多いのではなかろうか。
リスクを伴わない嗜みでリスクを負って生業にする。それはもう嗜みではなく、嗜みの心を失うことを覚悟した方なのではないか。
そういう意味では覚悟の出来た方は立派である。
リスクなしで嗜みのままうまい汁を吸ってしまった方は可哀想なのかも知れない。きっと釣りが汚くなって、いや釣りを汚く思えてしまってくるのではなかろうか。
これも時代背景を理解できない半端な釣師の戯言かもしれない。
いい歳をこいて遅ればせながら私なりに美しい釣りに浸れるよう精進しようと思える大切な言葉であった。

コメント

  1. itaru より:

    Birdさん

    大変にご無沙汰しております。
    今年は夏頃の更新が滞ってらっしゃったので、もしかして体調が? と考えてしまいましたが、秋の釣行記を見させて頂いてホッとしておりました。

    今回のお話。とても深いですね。
    Birdさんのお考えもじっくり聞きたいところです。

    私も漠然と感じながらも強いて深く考えなかったのですが、釣り具メーカーからのサポートを受けるようになり「お金」が絡むようになった仲間などを見てると
    いくつか思い当たることもあります。

    釣りを見て決定的に変わったなと思うことは「魚一匹に対する敬意が無くなってるな」と感じることです。

    これは結構、私の中では残念な話です。

    • アバター画像 Bird より:

      itaruさんコメント有難う御座います。
      今夏はほんとうに病気のようなものでした。気持ちがですが。
      ご心配頂き有り難く思っております。
       本棚に立てたまま10数年ほど熟成していた本で、自費出版で知り合いの知り合いの知り合いという事で頂く羽目になったものを一度読んでおこうと読み始めて、この言葉の段で暫く混沌といたしました。
      itaruさんと同じく漠然と感じていたこと、自分自身の釣りに対する姿勢の変遷などあれこれと頭の中で渦巻きはじめました。
       これはいったい何なのだろうという感覚に憑りつかれている状態です。
      著者はこの段の最後に「今でもこの言葉ははっきりと耳の底に残っています。」と書かれています。この本を出版されたころは60代前半ではないかと思います。
       私なりに理解しようと思うのですが、itaruさんや私のように気になられた方は色々なお考えもあろうかと思いますのでいろいろとご教授頂ければ幸いです。