もっともっと釣りたい

K-1がどっぷり渓流釣りにはまるのにさして時間はかからなかった。
美山川を皮切りに滋賀安曇川水系、愛知川水系、奈良吉野川水系、北山川水系、を釣り歩いた。
京都美山川芦生演習林は演習林事務所から七瀬谷までの区間、大谷から最上流上谷下谷まで網羅してしまった。
夜明け前から日が暮れるまで竿を離す暇も無いほど二人で先を競って釣りあがった。どうも私は叔父との渓歩きに馴れきってしまっていたのか、兎に角先へ先へと回り込むようになってしまっていたようで、K-1もそれを察知したかのように先へ回り込むようになってきたのである。釣れる日などはおにぎりを片手に竿を振っていた。餌は相変わらずミミズであったからミミズエキスの付いたおにぎりということになるが、そんなことより兎に角釣りたかった。七瀬谷辺りまで釣りあがり日が暮れると帰りは事務所まで2時間以上はかかる。懐中電灯は必携で車に戻るのは9時を過ぎることもしばしばであったが、帰りの車中ではもう来週の釣行計画を練るのである。

去年久しぶりに芦生から演習林に入ったが砂利が多くなり淵も浅くなってしまっていて少々寂しくなってしまった。また芦生から入って釣をしたいという気にはなれなくなってしまっていた。もう演習林には朽木の地蔵峠越えで入らないと釣れなくなったなと思っていた矢先、滋賀県側からの演習林入山が禁止となってしまい美山川も遠い存在になってしまった。芦生から入って大谷上流を釣るには3時間歩いて渓に入り釣りあがって5~6時間かけて帰ってこなければならなくなった。そんな元気も無いので入山禁止が解除されるまではもう美山川のヤマメには出会えそうに無い。
渓流釣りをしていると平家落人伝説によく出会うが、この川も昔々は木地師が多く、平家の落人の子孫であったと聞いているが今はもう廃村の跡らしき石垣が僅かに残るのみである。

滋賀愛知川水系も思いで深い水系である。御池川、茶屋川、神崎川、渋川、佐目子谷辺りを釣り歩いた。
御池川は本流出合いの消防署の橋の下から釣りになった、というか永源寺ダムバックウォーターから釣れるのだが下流と上流の組合の境界がバックウォーターより少し上流の堰堤となっているので出逢いから入るのが妥当だったのである。御池川は魚の付き場にムラがあり我々が好んで入ったのは政所を過ぎた茶畑から蛭谷下流のグラウンド辺り、蛭谷から君ヶ畑を越えて吊橋の辺り、君ヶ畑上流の大堰堤より上流で小又谷出合い下流の堰堤を越えて瀬川谷出合い下の堰堤までといったところだろうか。

御池川は私にとって多分生涯越えることの出来ないアマゴの記録の出た川である。43cm、鮭でも釣れたのかと思ったほどの強烈な奴だった。

turisan
今もそうであるがタモ、ランディングネットの類は当時から持ち歩かない性質でこいつが釣れたときにはどうやって取り込んだらいいのか暫く悩んだ挙句、エラが開いたときに指を突っ込んでガッチリ掴んだ。歯が指に食い込んで血が滲んだがそんなことは全く気にする余裕も無く岩盤の淵から広い砂利の川原までグルングルン暴れまくる奴を引きずって放り上げるまでは心臓がバクバクだった。お盆休みの最中だったと思うが、その日は増水後の濁りが澄み出してきた絶好の水況。テンカラ針を打ち返すが釣れて来るのは15cmほどの超小物ばかりで1時間ほどテンカラをやってみたが嫌になり餌に切り替えた。途端に尺、尺、28cm、29cm、25~6cm数匹と絶好調となり、奴の潜んでいた淵に餌を流すと根掛かりした、と思ったらゆっくりと上流へ動くのである。???浮いてきたのは魚であった、鮭?まさかここに鮭はおらんぞ、アマゴなら物凄いやつやなとゆったりと暴れるのを何とか弱らせ手元まで浮かせた。
テンカラへ転向したのは後の方で書くとして、テンカラで政所からグラウンドまでほぼ25cm平均のが入れ食いになり魚籠がいっぱいになって、一度魚籠の魚をディパックに移しまたいっぱいになるという物凄い日もあった。
後に登場するもう一人のKも蛭谷から入り君ヶ畑までの中間地点までをメインにやっていたが兎に角でかいのが多いと通い倒していた。後にこのKもフライに転向するのだが、あの頃フライをやっていたら大淵でライズしていた馬鹿でかい奴もし止められたかも知れないなとよく話したものだった。
君ヶ畑上流にはいい型のイワナもたまに居て驚かされることもあった。
この辺りの地名も何か落人伝説を感じさせられる。政所、君ヶ畑、そして名産品の政所茶、君ヶ畑の木工品。釣りばかりしていないでこのような土地の歴史にも目を向けていれば大物だの何だのと言う下世話な話以外にもっと面白い事が書けたに違いないと思うこの頃である。
そういえば、その頃君ヶ畑の御老人に聞いた話なのだが、この川にはもともとイワナしか居なかったがアマゴを放流しだしてからはイワナが減りだし今は主流ではなかなかイワナに出会う機会は無くなったと言っておられた。確かに小さな谷に入ると今でもイワナが多くいるがもともとはイワナの川だったのだろう。

茶屋川の林道はまだ丈治谷辺りまでしかなかった。古語録谷出合いからイワナ交じりで平均23cmほどの奴が釣れるのだが日ムラが激しく全く釣れない日もあればどこを流しても食ってくる日もあったりしてなかなか手こずらせてくれる川であった。この川の圧巻は茨川上流である。茨川廃村から林道まではその昔マンガンか何かを掘り出しそれをリヤカーか何かで運んだ道があった、その道を辿って茨川廃村の立命館高校、大学?どちらか忘れてしまったがこの山小屋を超えるとまさにパラダイス、苔むしたゆったりとした流れの川になり杉林に囲まれてはいるもののなんともいえない美しい川が現れるのである。少し増水していた日に茨川上流をやったというオジサンに出会い、見せてもらうと何とイワナといいアマゴといい全て尺を越えていた、あまりに釣れるので小さいのは皆リリースしてきたとのたまわったこのオジサンの嬉しそうなこと、小走りに下ってきた気持ちがよくわかる。私も茨川へ何度か入ったがその渓相の中で釣りをしていると渓流釣りをしてよかったという気持ちにあふれていた。もちろん釣果は推して知るが如くである。
よかったことだけ記憶しておこう。砂利に埋まった後の事はもう忘れてしまおう。
杠葉尾の集落に流れ込む須谷川でイワナを養殖しておられるが、ここの先代が初めてイワナの養殖に成功された方だと聞いている。山本素石氏(餌釣りではよく知られた釣り師)もこの鈴鹿の渓がお気に入りでこの養魚場の先代とあちこち稚魚放流をされていたようである。私どもにもこの先代は稚魚を安く売ってやるから谷の奥に放流して来いと気さくに言って下さったが水槽を担いで谷を上がる自信が無く果たせずじまいであった。
古語録谷を語らなければ茶屋川は終われない。古語録橋から見える堰堤以降は途中に滝があり数キロ上流の鉄骨の堰堤までは堰堤はなかった。滝まではゴルジュに近い渓相で滝を上がると開けた白い石の谷になっていた。滝まではアマゴが多かったが滝の上流はイワナのみであった。テンカラを始めた頃この谷のイワナ釣りが楽しくて滝までは釣りをせず、ひたすら滝を越えて通った。何の迷いも無くバックリと食い込んでくれるイワナ、上流から毛鉤を追って来て反転して食う奴、移動の途中毛鉤を水面につけたままで歩いていると突然ガツンと来てつれる事も珍しくなかった。古語録谷は私のテンカラ釣りの教室でありフライフィッシングへの助走ともいえる大切な思い出の渓である。

神崎川…兎に角しんどい川であったが、川の面白さでは愛知川水系随一の川である。